ジェームズ・ガン監督によるDCユニバース仕切り直しの一作。スーパーマンの単独作としては『マン・オブ・スティール』以来となりますが、“スーパーマン”を神に近い存在として描いたDCEUのキャラ設定に対し、クリプトン星から地球に降り立った以降は地球人として生活した“スーパーマン”として設定されており、完全無欠だったこれまでのスーパーマンと比べると結構脆い設定になっています。
≪ネタバレちょっとあり≫
お話
人々を守るヒーローのスーパーマンは、普段は大手メディアのデイリー・プラネット社で新聞記者クラーク・ケントとして働き、その正体を隠している。ピンチに颯爽と駆け付け、超人的な力で人々を救うスーパーマンの姿は、誰もが憧れを抱くものだった。しかし、時に国境をも越えて行われるヒーロー活動は、次第に問題視されるようになる。恋人でありスーパーマンの正体を知るロイス・レインからも、その活動の是非を問われたスーパーマンは、「人々を救う」という使命に対して心が揺らぎはじめる。
一方、スーパーマンを世界にとって脅威とみなす天才科学者で大富豪のレックス・ルーサーは、世界を巻き込む巨大な計画を密かに進行。やがて、ルーサーと彼の手下である超巨大生物KAIJUがスーパーマンの前に立ちはだかる。世界中から非難され、戦いの中で傷つきながらも、スーパーマンは再び立ち上がっていく。(映画.comより)
人間としての「スーパーマン」
これまでと比べてもかなり等身大な人間を姿をしているスーパーマンになっており、冒頭からそのキャラ設定を協調している分、面を喰らってしまうこともあって「あれれ失敗映画かも」と思ったものの、全編に渡って身近な仲良しから純粋に困っている人、動物、そして虐げられた国家までひたすら救おうとしながら、ラストに「僕だってヘマはするけど、頑張って“良い人”であろうと努力しているんだ」と悪役に啖呵を切る、冒頭から終わりまで人間臭くて「めっちゃ良いヤツ」なスーパーマンの姿には目頭が熱くなりました。
“お馴染みの場面”は無し
これまでの『スーパーマン』映画と同じく、架空の都市“メトロポリス”が舞台になっており、“メトロポリス”の中でデイリープラネット社にて新聞記者として働く“スーパーマン”ことクラーク・ケントが主人公。これまでのスーパーマン映画でお馴染みだった「クリプトン星が崩壊して、宇宙船で飛ばされて、カンザス州に降り立って…」という過程の話はオミットされていて、冒頭から敵とのバトルに負けてヤムチャみたいに死にかけるスーパーマンが描かれます。
死にかけではあるものの、愛犬のスーパードッグ“クリプト”のおかげで命からがらの状況を大復活するのですが、今度はSNSでの風評被害に苦しめられます。
優しくて精神的に弱いヒーロー
のっけから超人パワーでボコボコにされた上、続けざまにSNSでボコボコに叩かれて人間的弱さも露見するという「現実世界にヒーローが居たら」をそのままやっている内容で、これまでのDCコミックス系の映画だとほとんど寡黙なヒーローではありましたが、今回のスーパーマンはブツブツ文句垂れたりする系で、彼の正体を知りつつ、彼女になったばかりのロイスともヒーロー論に対するボタンの掛け違いから言い争いになっちゃったりします。その折でスーパーマンことクラークは「助けられるから出来る限り救ってるだけのに何で文句言われるんだ」と言っちゃったりするのですが、その些細なセリフが終盤の激アツ展開の伏線になっているのがとても良かったです。
今回のスーパーマンの一番の敵は、前述のSNSと戦争・紛争で、心優しいスーパーマンは世界の分断を生んでいる暴力的な争いにハッキリと否定し、この世界に恒久の平和が訪れることを望んでいます。まあ、スーパーマンがその状況をアピールする手段も結局のところ「暴力」なので、「それはそれでやってること大差ないんじゃないの」という部分も何となく浮かんでしまうものの、そのくらい真っすぐな人間“スーパーマン”像が徹底的に描写されているので、「頑張ってる人の話ってなんかいいなあ」とスーパーマンの映画で思うことになるとはなかなかの収穫でした。
ブラックジョークは控え目
監督がジェームズ・ガンなので、ブラック・ジョークとノリノリの音楽の応酬になるかと思いきや、今回はそれは控え目でオーソドックスな作りもあり、その点パンチには欠けるんですけど、新しい『スーパーマン』のキャラを構築し、ここまでスーパーマンとその世界観に親近感を沸かせてくれたこともあり、おそらく今後あるだろう続編がとても待ち遠しい映画になっています。
今回は新DCユニバース(DCU)のファーストを担う映画に設定されているそうですが、何となく分かっていた出来の良さや純粋に面白い作風も含めて、ほとんど「完璧」と呼んでも語弊がないだろう映画になっています。